寛永年間の始め、伊勢(鈴鹿)龍光寺虎伯禅師は三代将軍家光公に請われ、芝の金地院に於いて禪書『碧巌録』を講じてよりその名声は一時に高くなり、諸侯を初め知名の人々も日を追って帰依するに至った。
当初、親交のあった幕府の主官医・大橋隆慶法印の宅畔に僅かばかりの土地を借りて小庵を営んで居たが、後に牛込矢来下に官地若干を賜り、ここに一宇を建立して、伊勢と同じく天澤山龍光寺と称し、伊勢(鈴鹿)龍光寺の別院とした。
中でも、特に信仰の深かった京極、小笠原の両氏は廟所を當寺に定め、それにより両氏を当寺の開基とした。明暦二年、此地は御用地となり酒井讃岐守により豊島郡駒込村(現在地)に三千六百坪を拝領し移転改築した。
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