龍光寺ゆかりの人々
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錬斎の弟、名眞泰、通称権平。
水戸藩儒者たり。華夷通信録、鶏肋集、宋名臣言行録等の著あり。享保五年八月十八日没。年六十九。
名庵、通称蜂郎。
安政二年五月三十日没。年六十一。
名政朝、伯元と称す。
林羅山の門人、幕府評定所勤役儒者となり、諸家系図、本朝通鑑の編纂に興かる。貞享四年六月二十日没。年六十五。私に蘭斎と謚す。
名政直、伯隆と称し、後剃髪して三左衛門と称す。蘭斎の男、評定所勤役儒者となる。元禄十六年十一月十日没。年四十七。私に憲基と謚す。
名良資。評定所勤役儒者となる。正徳元年六月十三日没。年六十四。
名通方、通称太郎。太宰春臺に学びて名あり。寛保元年十二月十日没。年二十九。
名龍、字子雲、通称子平太。宇都宮戸田氏儒官、詩学階梯、凌棲集、富有録の著あり。賓暦四年正月八日没。年六十一。文英宗義居士。
息軒の長子、秀才の誉ありしも年僅かに二十九にして没す。文久三年六月十八日。
名堅壽、幕府醫官となり法眼に叙せらる。元禄八年五月十九日没。仁衛院頤神了存居士。
名元善、初め恕庵という。堅壽の養子、幕府醫官法眼に叙せられる。享保二十年七月十五日没。年七十二。硯壽院天元長居士。なほ瑞碩、瑞彌、外代々の墓あり。
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